当教室について
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当教室について

教室の沿革

教室の沿革[ history ]

整形外科教室の生い立ち

2025年に開講100周年を迎える北大整形外科学教室のルーツは、大正14年に整形外科の前身というべき北海道帝国大学医学部第三外科講座が設置されたことにさかのぼる。当時の第三外科学講座は第一と第二外科学講座の分担下にあり一般外科学とともに骨関節疾患を扱う診療科であり、整形外科学を単独に扱う講座ではなかった。その後、専門分野として事実上北大整形外科学講座が誕生したのは、昭和22年に第二外科学講座の奥田義正が第三外科学講座の教授に就任した時にとされている。


初代 奥田義正教授(昭和22年〜昭和26年)

初代 奥田義正教授

昭和22年12月10日、外科学第三講座が開講し、奥田義正が初代教授として就任した。岩下健三北海道帝国大学医学部附属医院長より第三外科学講座を整形外科として整備発足するようにとの指導があり、ここに北大整形外科教室が産声を上げた。

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奥田教授は整形外科学の何たるかを学ぶべく、東北大、東京大、京都大、九州大の整形外科学教室を順次視察し、特に九州大の先駆的仕事に興味を持ち帰札した。奥田教授を始めとして、若松不二夫、城進次、山信田欣一、星井孜、松野誠夫ら総勢9名が北大整形外科のスターティング・メンバーであった。当時はまだ戦後間もない時期であり、極度の物資不足にもかかわらず9人一丸となって心血を注ぎ、昼夜をたがわず教室づくりに努力したことが、北大整形外科同門会誌に記されている。「新しく教室を作れといわれても、何の設備の器械も病室すらないのだから、不遜の表現で申し訳ないが裸同然と申しても過言ではなく、まあまあ大変の一語につきたと思う。」「私以下は新設に伴う雑用やら、あるいは診療もできないので道内の病院から頼まれる出張医として出発したり、苦労して兎を集めて実験を始めたり、また毎週必ず抄読会を開いて勉強し、教授の掲げた「仁愛、至誠、協力」を旗印に、ただ黙々とやがてきたる春に備えて伸びる力を抑制していた。」このような大変な状態でのスタートであったがために、第1号の外来患者を迎えたときの喜びは計り知れないものがあった。
奥田教授の下では、ペニシリンを中心とした抗生物質に関する研究が行われた。また、奥田教授は股関節外科に興味を持ち、特に関節形成術の際の中間挿入物質を人体以外から獲得するため軟性可吸性体内挿入物質の研究が行われ、OMS膜の創製に成功した。OMS膜の名称は、奥田、松野、共同研修者の島津氏の頭文字をとったものであった。この功績に対し第1回北海道医師会賞が授与された。奥田教授は4年半にわたり北海道に整形外科学の種を蒔いたが、「…私が退き純正統の整形外科医が来ることを望みます…」という転任の挨拶を残し、北大医学部第二外科学講座の教授に転任した。


第2代 島啓吾教授(昭和27年〜昭和46年)

初代 奥田義正教授

奥田教授の後任として、昭和27年7月1日、九州大学医学部整形外科出身で当時久留米医大整形外科教授であった島啓吾教授が第2代教授として迎えられた。

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島教授は着任早々全道を巡回診療し、道内の肢体不自由者を始め整形外科疾患患者の実態を調査し、整形外科治療の有効性を道内で広く一般に啓蒙することに腐心した。島教授着任直後の研究内容は、股関節強直肢位の研究、腰痛(椎間板造影)の研究、長管骨の長径成長の研究の三本柱であった。昭和35年5月頃からポリオが歌志内、夕張、芦別などを中心に道内で猛威を振るい、北海道内の巡回診療班が組織された。
昭和36年6月、第34回日本整形外科学会が札幌の地で島教授のもと開催された。本学会は日本整形外科学会の歴史の中でエポックメーキングな学会であったと後々まで評価された。関節形成術、頸部脊椎骨軟骨症を宿題報告に取り上げ、連日活発な討論が続き、大成功裏に閉会した。昭和37年4月には初の日米整形外科合同会議が開催され、島教授が変形性股関節症に対する角状ならびに移動骨切り術の成績を発表した。同年11月には、教室開講15周年、島教授着任10周年記念祝賀会が盛大に開催された。この時点での同門先輩は80名、医局員数は61名に達し、奥田、島両教授によって掲げられた北海道の整形外科専門医の育成はここで当初の目的を達したと考えられた。島教授は昭和40年から2年間、北大病院長を兼務した。


第3代 松野誠夫教授(昭和46年〜昭和61年)

初代 奥田義正教授

島教授退官後、松野誠夫助教授が第3代教授に就任した。松野教授は整形外科講座を上肢班、脊椎班、股関節班、下肢班の4つの専門診療グループに分割し、さらに骨腫瘍班を編成した。

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研究部門では、骨腫瘍、脊柱側弯症、変形性股関節症、先天性内反足などの研究を中心に、手の外科、リウマチ外科、膝関節症に関する研究を指導された。昭和44年にはリウマチ外来を設置し、マイクロサージェリーの技術を用いた切断肢の再接着を積極的に行った。肩関節外科領域では、習慣性肩関節前方脱臼に対し、プチ・プラット法の臨床成績を肩関節研究会のシンポジウムなどで報告した。また、厚生省の難病に指定されている特発性大腿骨頭無腐性壊死症や頚椎後縦靭帯骨化症については、厚生省の研究班に選定され研究費を受けた。増加傾向にあった変形性膝関節症に関しては厚生省科学研究費を受け、基礎研究ならびに臨床研究に着手した。基礎的研究の一つにバイオメカニクスがあり、運動器疾患に関して工学的手法を用いて解析する重要性を説き、基礎研究を充実させることに心血を注いだ。
松野教授就任後、助教授には原田裕朗が就任した。昭和47年5月から昭和51年10月までは石井清一が助教授に就任した。昭和51年12月からは、金田清志が助教授に就任した。昭和50年4月、旭川医科大学が創設されたのに伴い、整形外科学講座助教授として原田吉雄が転出した。また、岐阜大の浅井講師、獨協医大病院越谷分院の五十嵐教授、野原助教授が北海道外に転出した。
松野教授は昭和53年北海道医師会賞ならびに北海道知事賞を受賞し、昭和58年にも北海道医師会賞を受賞した。昭和57年から2期4年にわたり北大病院長を務めた。救急部の整備、中央診療および分娩部・厨房の増改築と力強い建設を展開した。


第4代 金田清志教授(昭和61年〜平成12年)

初代 奥田義正教授

松野教授の定年退官後、昭和61年8月、第4代教授に金田清志助教授が就任した。金田新体制では上肢、下肢、脊柱、股関節と腫瘍班が踏襲された。

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脊柱班は脊柱のバイオメカニクス研究に力を入れ、脊椎の3次元動態測定、脊椎インプラントの強度試験、有限要素法を用いたインプラント最適設計などの基礎研究を行った。股関節班は先天性股関節脱臼、変形性股関節症、特発性大腿骨頭壊死症の病態解明と治療体系の確立を目指して研究を行った。下肢班は、先天性内反足や足部変形、変形性膝関節症、膝関節靭帯損傷について治療や臨床研究を行った。上肢班では、四肢の発生と奇形の病理研究やマイクロサージェリーを応用した血管柄付き関節移植と手関節周囲の疾患研究が行われた。腫瘍班では骨肉腫の免疫学的研究やイヌを用いた高圧滅菌骨移植片の研究が行われた。
金田教授は、特に胸・腰椎前方脊椎インストゥルメンテーションである「カネダ・デバイス」の考案者としてわが国はもとより諸外国でも高名であった。多くの海外からの見学者が教室を訪れ、カネダ・デバイスを使用する脊椎手術を見学した。さらに「カネダSR」や「KASS(Kaneda Anterior Scoliosis System)」の開発を行い、世界各地でデモンストレーション手術を行った。鐙邦芳助教授は頸椎椎弓根スクリューシステムの開発を行い、北大独自の脊椎インプラントが数多く開発された。上肢班の三浪明男保健管理センター教授は、複合組織移植の基礎的研究を推進させ、四肢のみならず脊椎疾患の困難な臨床例に対し複合組織移植手術を数多く行った。下肢班の安田和則講師は、学内の応用電気研究所と共同研究を行い、膝前十字靭帯の力学的特性の研究や北大式人工膝関節の開発に邁進した。
平成9年6月、第70回日本整形外科学会が札幌市で開催された。メインテーマは「日本整形外科学会70年の歴史から21世紀への創造」とし、会長である金田教授の指揮のもと、学会は大成功裏に終了した。金田教授在任中に各地で教授に就任した門下生は、山形大学の荻野利彦教授、旭川医科大学の松野丈夫教授、獨協医科大学越谷病院の野原裕教授、北海道大学医学研究科生体医工学の安田和則教授である。平成12年3月31日に金田教授は定年退官を迎え、その後美唄労災病院の院長に就任した。


第5代 三浪明男教授(平成12年〜平成24年)

初代 奥田義正教授

金田教授の退官後、平成12年8月に北大保健管理センターの三浪明男教授が、第5代教授に就任した。三浪教授は、骨軟骨の再生医療を基礎研究の要と位置づけた。

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組織再生に必須なscaffold(細胞の足場)の開発、脊髄・神経再生、関節リウマチや骨粗鬆症におけるマクロファージ遊走阻害因子の役割などの研究を大学院生が中心となり精力的に行った。変形性関節症や関節リウマチの病因解明、骨代謝や骨軟部腫瘍に関する研究など、国際ジャーナルに掲載される論文数が増加した。臨床面では、再生医療を応用した軟骨移植、人工膝関節ロボティックス手術、脊椎ナビゲーション手術、脊椎内視鏡手術などの先端医療を数多く行った。その優れた功績により、平成20年に北海道医師会賞、北海道知事賞を受賞し、平成21年には日本整形外科学会賞、北海道科学技術賞を受賞された。
平成20年5月、札幌市で第81回日本整形外科学会学術総会が開催された。メインテーマは「整形外科の未来を拓く」、英語テーマを「Ambitious Orthopaedics」とした。会長である三浪教授の指揮のもと、教室員・同門会が一丸となった素晴らしい運営であったと各方面より絶賛された。学会参加者数は当時の日整会史上最高数を記録した。IC機能付カードシステムが初めて導入され、参加登録から教育研修会単位登録まですべての事務処理をコンピューターで行う、従来とは全く異なる新しい運営方法が導入された。関連寄附講座として、平成19年に人工関節再生医学講座(眞島任史特任教授)、平成21年には脊椎・脊髄先端医学講座(須藤英毅特任講師)が開講した。三浪教授就任後に同門から輩出された教授は、鐙邦芳北大保健管理センター教授、武田直樹北大医学部保健学科教授、加藤博之信州大学教授、野原裕獨協医大教授、大関覚獨協医大越谷病院教授である。
三浪教授は在任中、国立大学の独立行政法人化や新臨床研修制度導入による研修医の大学病院離れなど多くの難局に直面した。しかし、日本整形外科学会副理事長、日本手の外科学会理事長として要職を担い多忙を極める中にあっても、その卓越した指導力と不屈の行動力により教室員をまとめ上げ、臨床及び研究の発展に尽力した。平成24年3月31日に三浪教授は退官を迎え、その後美唄労災病院の院長に就任した。


第6代 岩崎倫政教授 (平成24年~)

初代 奥田義正教授

三浪教授の退官後、平成24年10月に北海道大学大学院医学研究科整形外科学分野の岩崎倫政准教授が、第6代教授に就任した。岩崎教授は、軟骨、靭帯・腱などの運動器再生医療の開発とその臨床応用、変形性関節症や椎間板変性の病因解明および予防的治療法の開発、骨代謝性疾患の病態解明および骨の治癒促進に関する研究などに力を注ぎ、現在に至っている。

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岩崎教授の指揮のもと、基礎研究では軟骨・骨代謝・椎間板・半月板・脊髄・末梢神経・骨免疫など運動器全般に関する研究を行っている。臨床講座の特徴を生かした、臨床応用を具体的に見据えた研究、臨床検体を使用した研究、新規治療法、診断方法の開発につながる病態解明に関する研究を実践している。北大整形外科教室で開発した軟骨再生の治療法は臨床治験が行われ、また軟骨変性の新規標的分子探索、半月板、椎間板の再生治療、骨粗鬆症への新規薬物治療、関節リウマチの病態解明、脊髄損傷に対する幹細胞治療や薬物治療、末梢神経損傷に対する細胞治療、炎症性骨溶解に対する新規標的分子探索など、多岐に渡る運動器疾患に対して、細胞、および分子レベルでの病態解明・臨床応用を目指した研究を精力的に行っている。また、総合大学の特徴を生かし、医学部の基礎講座をはじめ、理学部・工学部・薬学部との共同研究を積極的に行い、分野を跨いだ研究を行っている。特に糖鎖工学と医学との融合分野における研究を積極的に行っており、その研究成果は国際的にも高い評価を受けている。これらの基礎研究の業績結果は、国際ジャーナルに論文として多数掲載されている。臨床面では、再生医療を応用した軟骨移植や独自に開発したソフトウエアを用いて再現性の高い方法での関節内応力分布解析、脊椎ナビゲーション手術、日本人に適したインプラントの開発など、数多くの先端医療を行っている。
関連寄附講座として、平成26年にスポーツ先端治療開発医学講座(近藤英司特任教授)、平成29年に先端的運動器機能解析・制御学分野(角家健特任講師)、先端的糖鎖臨床生物学分野(古川潤一特任准教授)、平成30年に転移性骨腫瘍予防・治療学分野(岩田玲特任助教)が開講した。従来からの脊椎・脊髄先端医学分野(須藤英毅特任教授)およびスポーツ医学診療センター(門間太輔助教)とあわせて、現在までに6つの関連寄付講座・センターと共同で基礎研究及び臨床業務に邁進している。
岩崎教授の指導ならびに教室員・同門会員の不屈の行動力により、国際的評価に耐えうる臨床および基礎研究を行いその成果を世界に発信すること目指している。



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